ワンルーム

  ドンッという強い音で目が覚めた。ごぽっという鈍い音が耳の隣で泡となって消える。体中に響く振動でこのまま睡眠を続行する事は不可能に近い。女の泣き叫ぶ声が身体の中心を通り抜けて僕を裂こうとするし、外からも衝撃が絶えない状態が続く。逃げようとしても、僕と女とが繋がっているこのロープを、僕は離せずにいる。今、その状態にある。
 逃げ出せれば何の苦労も無いだろう。耳を塞いで身体を丸め、あわよくば走り、誰も居ない所でやり過ごす。優しい人が「大丈夫かい?」と、手を伸ばしてくれる事を待つだけの簡単な作業をすればいい。…それが出来ないからこの苦痛に耐えられずにいる。「誰が好き好んでここに身体を埋めとかなければならないんだ」とか、「もっときっと幸せな時代があっただろう」だとか、まだ自身の力で酸素というものすら口にした事が無い僕が考えるのもおかしな話だろうか?


1


 世界は三つあると、僕が作り出される時に教わったよ。誰かはわからなかったけれど小さな光のようだった。今、この水中での生活、そして水中から追い出された後の生活...出産だとか言っていたかな。そして、追い出された世界から更に追い出された生活の三つだと。追い出された生活をしている人は暢気なもので、水中にいる時の生活の事はすっかり忘れてしまうんだとさ。でも、それは仕方がないって言っていたよ。人間というものは愚かな生き物なんだって。犬や猫は覚えているらしいんだけれど、人間だけ忘れているって。元々愚かな生き物として追い出されるのも寂しいものだよね。なら、僕は犬や猫がよかったや、なーんて思っているけれど後の祭り。僕の遺伝子は約26000個という数で形成され始め、どう足掻いても裸四足歩行で生きていくのは難しいようだ。まぁ、愚かは愚かなりにやっていこうじゃないかって思ったわけ。でも、追い出されて忘れるまでやっぱり十月十日ここの生活を僕は楽しむわけだ。じゃあ愚かで居るのは損なのさ。もしかしたらだ、僕がここを追い出されてしまった時、奇跡的にここの生活を覚えているとしよう。それって凄くラッキーだし、愚かに生きなくてもいいという光の道筋になるわけ。その可能性を捨ててはいけないわけさ。わかる?わかんないんだろうなぁ。だって思っているでしょ?「胎児がこんな事を考えれる筈がない」って。その考え方が愚かなのさ。僕の今の状態を見てご覧。…裸で蹲っているだって?だから駄目なんだ。もっと外を見てご覧よ。僕はこの女の中に家を構えているんだ。栄養も酸素も不足しない。室温だって快適さ。そして何より僕はこの女と繋がっているんだ。これは僕を生かすだけのものじゃない。直接脳に繋がっていると言っても過言ではないかもね。女の知識は今の僕の知識とイコールで繋がるわけさ。こういう事を考えれるのは多少なりともこの女が賢さを身につけているからなんだろうね。そこには感謝しているよ。だって馬鹿な女も世間にはいるんだろ?テレビでよく見るよ。あ、当然目も繋がっているからね。全てが僕の世界さ。僕がこの女だと言っても過言では無い程にね。
 まぁ、馬鹿な女を目にするって話。ほんと、世の中には沢山居るね。知識も教養も無い人間が。あんな気持ち悪いメイクをして流行語を喋る事に何の意味があるんだい?コミュニケーションだろうけれど、あれをコミュニケーション能力だと言い張る気もしれないよ。同じじゃないか。同じものを持てば仲間意識が芽生えるだろうし独りになる事も無く楽しい生活を過ごす事が出来るんだろうね。…それが何年続くと思ってるのさ。そういう女を見る度に鼻で笑ってしまうよ。こう…馬鹿さが顔に出てるよね。まぁ、他人と触れ合った事が無い分想像とこの女の知識だけで僕は話をさせてもらっているだけさ。文句を言うならこの女に言ってくれよ。
 取り敢えず…僕は"まだ"この女でよかったとは思ってる。知識や教養の面でね。人を馬鹿にする事が多いけれど、それ以上に得るものがある。健康面でも申し分無い。酒は飲まないし煙草も喫まない。ドラッグも勿論しないし、ヒステリックでも無い。治安のいい物件だよ。ただ、解せないのは男だね。男が解せないよ。大きな声を出すし、僕の家の壁を破壊しようとするんだ。まだ僕作り出されてから三ヶ月なんだ。もうちょっと家の壁が固まるまで時間がかかるんだよ。安定期ってやつ?それ。でも、多分そうだなぁ。僕はもしかしたら二つの世界しか堪能出来ない気がするんだ。なんでかって?そんなの…この女と繋がっているからさ。知識も教養もあるけれど、この女も馬鹿な女だよ。言ったろ?「賢さを身につけていることには感謝している」って。ああ、健康面とかもそうだけどさ。大事なのはあれだよ、常識とか性格とかもあるもんさ。取り敢えず、今この騒音を鳴らしまくってるのは僕の父親である人間だろう。僕にとってはどうでもいいんだけどね。あんなカスみたいなオタマジャクシの一つがたまたまヒットして僕になっただけだろう?確率の問題さ。確率だけで人を愛せると思ってたら人として問題があると僕は思うけどね。僕の家を持つこの女の事でさえ僕は愛してないんだ。それに、僕の快適な家まで壊そうとしている。
 まぁ、同情するなら女の方なんだけど、女にも同情する余地は無いね。だって、僕は生まれてはいけない子どもなわけさ。別に額に数字が三つ並んでいるわけじゃないけれど、似たようなもの。どこかの誰かの世界を破滅させる力は持っているって事さ。法律上の問題でも難しいらしいしね。僕が産まれる事によって金銭問題も半端ないわけ。…まぁそれは一般的な家庭でも同じ事例が出るんだけれどさ。

 最近の事を話しようじゃないか。僕の計算によると、今日しか無い、と思うんだ。何故なら若干息が苦しいからさ。こんなに喋り続けているからだって?それもあるかもしれないなぁ。まぁでもきっと、僕はここから追い出された後は「口から産まれた子ね」なんて言われる自信があるくらいお喋りだからいいんだ。問題なんて無い、このまま続けようじゃないか。


2


 光に導かれて目が覚めたのは3ヶ月前の昼。「あっ…」という女の小さないつもとは違うトーンの声を耳にしたのが始まりだ。そこから僕は生き始めた。きっと妊娠検査薬に反応があったか何かなんだろうな。小さな声は僕のスイッチだったんだ。そこから僕の世界は始まった。

 いきなりこんなに色々悟っている訳でも無かったし、結構戸惑ったよ。だって僕にはまだ頭も身体も手も足も指も何もかもが無かったんだ。ただの小さな小さな塊さ。言わば感覚だけがこの女の腹に住み着いたんだ。別の感覚。女の一部であるから女である事は間違いないのだけれど、女と男が混ざった混合物は純粋な女とは至極かけ離れた存在なわけさ。まぁ全くの他人よりは近しいものがあるかもしれない。けど、そんな事は関係ないね。僕は僕として生を受けた以上この女とは別の"個"としての存在になる。そこをはっきりしておかなきゃあ駄目だ。

 でも最初は仕方なかった。女が口にするものを僕は吸収していかなければならないし、まだ真っ白な頁な僕の感覚ノートをこいつは自分の感覚と感性と知識と教養で埋め尽くしていく。狂いそうだったね。思うんだけど、それで自分で命を断つ奴も中にはいるんじゃないかなぁ?其れか感覚がパンクしちゃってね。命なんてそんな軽いものじゃないんだろ?大事に尊ぶべき存在なんだって。これもテレビから教わったわけだけど。サバイバルなんだよ。出来上がった時からサバイバル。生きる資格は貰うだけじゃ駄目なんだ。どれだけ耐えて持ち続けられるのかが問題だよ。途中で死んじゃう奴はサバイバルに打ち勝てないわけ。可哀想だけど、才能がないのさ、きっと。

 才能が無いなんていうと「産まれたくても云々」みたいな人がいるけど、僕はそういう話題ノーサンキュー。今議論した所でどうしようもないし、第一今日で僕は僕としてここを追い出された世界をすっ飛ばして更に追い出された世界に行くかもしれないんだ。そこらへん同情してくれてもいいんじゃないかな。

 まぁ、辛かったのは最初の一週間だけ。慣れっていうものは恐ろしいもので、僕はこの女じゃないけれど、どんどんこの女の感覚に染められていくんだ。そしてそれがだんだんと普通になる。でも、僕は僕であってこの女ではない事実がある以上、この女の考え全部に乗っ取られるわけは無く、自己というものが形成されていったんだ。早いでしょう。そう思うよね。だってここの第二の人生を十月十日に凝縮した世界だよ?其れくらいのスピードじゃないと対等じゃないと思うな。それか、僕が人一倍飲み込みが早くて頭がいいのかもしれないね。それに比べてやっぱり追い出された世界の人間は愚かだね。…いや、なんでもないよ。
 だんだんと形成されていく自己と、この女の全てが僕の中に入ってくる。色々と聞いたよ。繋がっていなくともね。だってこの女は僕に話しかけてくるんだ。「元気?」とか「お母さんだよ」とか。反応を返せない状態で質問を投げかけたり話かけたりするっていうのは何とも滑稽な光景だよ、結構ね。
 男との関係も沢山教えてくれるんだ。聞いてもいないのに。一緒にはなれないだとか、逃げてきたとか、本当は堕ろせって言われてる事とかを事細かにね。そういうのって子どもに言うべきじゃないと思うんだ。だけど、追い出された世界の人間はやっぱり何もかも忘れているようで、僕が今、きちんと身体を形成していない状態で"個"としての感情や精神を持つ事を知らないでいる。だから全て話してもいいわけだ。許しを乞うているのかな。僕は懺悔室じゃない。そして答えも返せない。これは結構、卑怯な事だ。
 それに何でも受け止めているように見えるだろう?さっきも言ったけど僕は"個"としての感情や精神があるんだ。それを忘れてもらっちゃ困るな。人知れず涙を流す事もあるし、驚愕する事もある。まぁ自分の今の状況には絶望を覚えているけれど、諦めという単語も最近覚えたから後は実行するだけだ。

 僕らはコンピューターのような存在に近いかもね。媒体からOSをインストールされてソフトウェアもインストールする。そして喜怒哀楽のアプリケーションを作動したりして生きていくんだ。それが追い出された世界よりも言葉通り"機械的なだけ"さ。だから僕は今、自分の置かれてる現状に恐怖心でお漏らしをするだなんて恰好の悪い事なんてしないよ。第一膀胱もまだ正常に機能していない状況で尿があったとしても垂れ流しさ。そこらへんはまだ人間できてないの。言葉通りに。…あ、ここ笑う所ですよ。

 「産まれてきてはいけない」僕をどうにかこうにか守ろうとこの女は頑張ってるけど、やっぱり難しいね。派手に動けないしさ、下手に遠ざかれないじゃん。男から見れば"セックスしないと価値の無い女"なんだから急に拒むのもおかしな話で、隠し事はすぐバレてしまう。だから風邪をひいただとか仕事が忙しいっていう理由付けをして男と会う事を遠ざけていたんだ。その間に引越しや何やらの手続きをしたり、実家に帰ればいいものをこの女はしなかった。

 …一抹の希望を持っていたのさ。会えない時間に「寂しい」と言ってもらうのを待っていた。風邪をひいたと言った時、真っ先に駆けつけてお粥の一つでも作ってもらいたかった。「俺が愛してるのはお前だけだ。結婚しよう。」って言ってくれるのを待っていた。だけど、そんな事はまずありえない。ありえる男なら初めからそうしないだろ。そんな男の子どもだから、余計実家にはどう説明していいかわからないで踏ん切りがつかなかった。この女は弱いんだ。その弱さが自分だけに向けられるのなら良かったのに、生憎腹には僕が住んでいる。そこまで考えなかったのかね?やっぱり追い出された世界の人間っていうのは馬鹿だ。
 馬鹿は馬鹿なりに上手くやろうとはしないものなんだね。それが今の状況。大きな音で目が覚めたけれど、起きた瞬間女の思考が俺にぐいぐい入ってきて止めようとしない。急に男が訪問してきた事。何故会えなかったか理由を追求された事。セックスを要求されたが、僕が腹に住んでいる状態で出来る筈もない。これで堕胎したらお笑い種だもんな。これまでの我慢と苦労はなんだったって話になる。

 だけど男も馬鹿じゃない。だけど女は馬鹿だ。追求されたら答えを言ってしまう。抗えないのと、まだまだ希望を握り締めていた。その希望はお察しのとおり、踏み潰されて粉々になった。そっから今現在に至るってわけ。笑ってもいいよ。え?笑えないって。あ、そう。


3


 それで今女がタコ殴りね。騒音にも慣れてきたし、振動も余震みたいなもんだと考えればまだまだいけるよ。だけど、さっきも言ったように"まだ人間できてない"の。だからいつぽっくりいっちゃうかわかんないっていうね。あ、やっぱ痛いよ。この女が「痛い」って思ってるもん。だから僕はその痛さを感じている。…色々な制裁かなとも思うよ。きっとね、前世で僕すげぇ悪い事してるんだと思うの。ものっすごく悪い事。だから産まれさせてももらえないっていうね。どんな悪い事かっていうとね、多分この男がやってるような事をやってるんじゃないかな。腹ボテの女の腹を靴で蹴りつけちゃうような。妊娠の事実を知らないって突き通せばデートDVとかできっと収まっちゃいそうだもんね。何しろ女がこれだし。「はい、そうです」って言っちゃいそう。そんで後から後から後悔し続けて自殺しちゃうんじゃないかなぁ。あ、でも今思ってるのは「死ぬのは嫌だけどこの子と一緒なら私は死ねる」って言う事かな。迷惑だよね。お手々繋いで「一緒に天国へ行きましょう〜」なんて言える訳ないもの。追い出された世界を追い出された世界に行くんだ。きっとまた記憶は無くなって一から始まるよ。それを僕は知っている。この女は知らない。ただ、今は悲劇のヒロインなんだ。自分の愛する男と自分との間に出来た奇跡の一粒を守るのに必死な悲劇のヒロインだよ。僕としては諦めがついているのにね。そう、もう諦めのアプリケーションは作動済み。自分をアンインストールや初期化出来ればいいんだけど、それは自分では操作出来ない。"まだ人間できていない"ので。

 人ってさ、凄く傲慢だよね。実際バレなくてこのまま男が気付かなくて出産しちゃってたらどうするんだろう。こんな男の事だ、不慮の事故に見せかけて産まれたての僕を殺すかも知れない。それこそ「だっこしてたら暴れて落ちました」とかでもきっと僕は死んでしまう。窒息させるのも簡単だろうし、なんでも出来る。この世界の記憶が残っていたとしても抗う事なんて出来ない。僕が出来上がっているのは脳だけだからだ。歩く事も喋る事も食べる事もままならないただの考える有機物に成り下がるだけ。そんな僕を殺す事なんて簡単さ。そんな事が起こるとも想定していないんだろうね。頑張って12歳位まで生き延びてもひき逃げだとか色んな方法はあるんだ。僕はそんな恐怖と戦って生きていかなければならないのに、それなのに産むなんて傲慢だとは思わないかい?

 …嗚呼でもその心配はなさそうだ。もうそろそろ駄目だな。この女自体がサーバーダウン状態だよ。気絶だったらいいんだけどね。ちょっとずつ呼吸が出来なくなってきた。と、いう事は殺したんだろうな。そりゃこんだけ僕も長い時間喋っていたんだ。その間ずっと殴られ続けていたのなら仕方ないね。死んでしまうのも仕方が無い。こんな非情な男を愛して希望を見出そうとしていた愚かさに更に追い出された世界で乾杯するしかないのかな。あ、でも僕は未成年だし更に追い出された世界でお互い顔も合わせづらいし覚えてるとも思えないからここでしておこう。「乾杯」。胎水で乾杯なんてオツなもんだよ。どれくらいの人間が経験してるかアンケートでも取りたいものさ。大体そういう奴らはペンすら握れないだろうけどね。
 …うん。もうそろそろ駄目だな。眠るようにして死んでいくか。どうせ産まれても辛かっただけなら来世に賭けるしかないね。来世はもっと愛されるような女の腹に住んでひねくれた考え方をしない胎児として生活したいと思うよ。

 結局君の名前も聞かず仕舞いだったね。礼儀を欠いてしまった。申し訳ない。だけど、僕に名前が無いから自分の名を名乗れ無かったんだ。自分の名を先に名乗るのが礼儀だろう?出来ないからすっ飛ばしてしまった。あまりにも君がゆっくりと聞いてくれるものだから、つい。悪かったね。多分女がつけてくれようとした名前があるんだけど、いくつか候補があってどれがいいか考えてる最中みたいだったんだ。気に入った名前はあったよ、たしか、た


4


 プツリと世界が停まった。部屋には横たわった女と息を荒らげた男が立ちすくんでいる。一仕事を終えたような顔で煙草に火を点け、どっかりとソファーに座った。「めんどくせぇ」と、小さく言葉を吐いて煙草を喫む。男は心底女の事がめんどくさかった。遊ぶには申し分ないルックスだったしセックスの相性もよかった。けど、"めんどくさかった"のだ。遊びで割りきりたかった。家に帰れば妻も子も居る。世間体もあるので家庭を持った男にとっては大事なものだ。せっかく作りあげたものを壊されるのも癪だし、また作り直すのもめんどくさい。現状でいいのだ。妻だって遊ぶ位は見て見ぬふりをしてくれている。妻もまた"世間体"で結婚したのだろう。そして、それで子どもを産んだ。同類だ。咎める事なんてされる理由がない。
 だけどしくじった。ピルを飲んでいるなんていう言葉はただの甘い囁きだったのだ。ただの遊びの女に騙されたという事が男のプライドを傷付けた。

 だが、少々やり過ぎてしまったようだ。そんな事を考えながら灰皿に煙草を押し当てる。



 やってしまったものは仕方がないのだ。また同じ道を辿るしか無い。

 そして女の腹に向かってこう言う。

 「わりーな。来世も同じ結果だわ。」

 と。


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 プロットはずっと持ってたんですが、書くのに時間がかかった挙句出来栄えとしては最悪なので精進したいです。

 堕胎は本人次第で、というのが私の考えではあります。自分の宿した物に責任を持つ持たないは宿下側が持つ問題なので世間一般でいう倫理とかなんたらうんにゃらは通じない所があると思ってもいます。
 そこで討論とかにはなりたくないのでご勘弁を…。