猿駅/初恋

 著者:田中哲弥
 発行者:早川浩
 発行所:株式会社 早川書房
 2009年3月25日初版発行

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 三宮駅南側の噴水。真っ赤なワンピースに身を包んだ山本祐美子研究主任さんがいそいそとやって来た。いつもなら、こういうところで人を待っている若い女を見るたび嫉妬による悔しさのため髪は逆立ち口は裂け、ひどいときには鼻から炎が噴き出したりもするのだが、今日はウキウキにこにこキャッホランランである。仲間意識さえ持ってしまう。
 なにしろ今日はデートなのだ。生まれて初めての。そう生まれて初めての。三十七歳にもなって生まれて初めての。
 そうなのだ山本祐美子さんはもう三十七歳。生物学に関する知識は素晴らしいが顔が大きい。英語もスペイン語もペラペラだけど足が短い。実家は金持ちで育ちも良く、ピアノを弾かせたらプロ並みの腕前なのだけれど出っ歯。
 化粧を塗りたくった顔は素顔とはまったくちがう顔になってしまっているが、素顔とはまた違う迫力を生み出しているだけである。

 「猿はあけぼの」より抜粋

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 「猿駅」
 「初恋」
 「遠き鼻血の果て」
 「ユカ」
 「か」
 「雨」
 「ハイマール祭」
 「げろめさん」
 「羊山羊」
 「猿はあけぼの」

 初・田中哲弥。ずっと読みたい読みたいと思っており、本屋に行くたびに「た行」を探すんだけれど、売っておらず。(…と、いうか私が欲しいと懇願する本程インターネットや大きな書店に行かなければ無いという…寂しいものです。)友人の家に行った時に「サゴケヒ族民謡の主題による変奏曲/田中哲弥」と共に持ち帰ってまいりました。

 グロくて笑えてエグくて泣ける、と、いろんな感情を一括りにしたような、そんな本じゃないでしょうか?

 まず「猿駅」で挫折する人って多いイメージ。はっきり言って「不可解」です。駅を降りたらそこには一面の猿が…そして踏み潰そうが何をしようが何もされない。ただ、そこには大量の猿が、というお話。ね、不可解でしょう?だけど、その不可解さがたまらなく気持よくなってくる。
 「初恋」では烏賊を食べれなくなる気持ちになって、「遠き鼻血の果て」ではお風呂で鼻血が出ると怖くなる。「ユカ」では寂しさで自分を売ってしまいたくなるし、「か」は夏が怖くなる。「雨」は記憶がふっと遠のくだろうし、「ハイマール祭」はどこか小さな村に行くのはテレビ番組だけでいいと思うようになる。「げろめさん」では学校で勤めたくなくなるだろうし、「羊山羊」は治る病気が愛おしくなるだろう。
 「猿はあけぼの」は、ホロリとしてしまった。ところどころで笑いを誘うのに、最後の最後までその文調で貫き通すのに、ホロリとしてしまうのだ。これを最後に持っていくのは、卑怯だ。と、同時に、最後まで読み終えたご褒美だろう。

 そのご褒美をもらう為に前半、頑張ってみる価値はあるんじゃないのだろうか。


猿駅/初恋 (想像力の文学)

猿駅/初恋 (想像力の文学)