救済の日

著者:西岡兄妹
発行者:手塚能理子
編集者:高市真紀
発行所:株式会社青林工藝舎
2008年10月20日 初版第一刷発行

  • -

『船着き場に男の黒い影が見えた
 よく見ると娘の上に馬乗りになって何かしている

 首を締めているように見えた

 「おい、何をやってる」

 大声で叫んで走り出した

 男はぼくに気づくと娘の身体を海に放り投げた

 そして反対方向に逃げ出した

 娘の身体は思いの外 早い潮の流れに乗って
 沖へと流れて行く

 男は走って逃げて行く

 ぼくがその場所についたとき
 はたと足が止まった
 ぼくはどうするべきなのかわからなくなった
 たぶんもう息がないだろう娘を助けに海に飛び込むべきなのか
 犯人の黒い影を追いかけるべきなのか

 ぼくは一歩も動けなくなった
 ただ突っ立ったまま一人うろたえていた』

  • -

 私が初めて触れた西岡兄妹がこの本で本当によかったと思っている。きっと、初めてじゃないと西岡兄妹の世界に入り込めなかったんじゃないんだろうかという気さえするのだ。


 強烈な嬰児の姿から始まる物語はどこもかしこも強烈で、文字の多さ、吹出しの無さ(西岡兄妹の本としては当たり前なのだけれど、”漫画”として購入した手前其処が気になったりもしたが)から、絵本を読んでいる感覚に陥る。絵本という物は大体が子供向けで、偉い人から言わせれば「絵本こそ大人が読むべき本だ」という物らしい。だが、この本は絵本ではない。子供には見せられないし、見せた所で理解する前に絵柄で拒絶されるだろうから。けれど、私にとっては確実に絵本として認識されている。其れが”何故か?”と問われても、明確な答えは出せない「絵本だから」としか言いようが無いのだ。1度読んで日にちを置いて2度目にチャレンジして欲しい。確実に感覚は”絵本”に近しくなっているだろう。

 恥ずかしながら、小さな頃の私は児童文学でよく知られているミヒャエル・エンデの「モモ」という本の表紙だけでびびって未だに読めていない人間である。今でも表紙を見るだけで泣きそうな程の恐怖が私を包みこむのは言うまでもない。”児童文学”なのでそんな末恐ろしい本では無いのだろうと察しているのだが(きっと最終的には夢も希望も満ち溢れるラストになるに違いない、と勘違いなら笑ってしまう。が、その仮定で話を進める)、そのラストビジョンが見えていてもきっと私はゆっくりと無音の時間を貰わないと「モモ」が読めないだろう。実は、この「救済の日」を手にした時その感覚は確かにあったのだ。表紙は可愛い天使の絵柄に「救」の文字。白とクリーム色と灰色とが綺麗に調和された下地に金色の装丁。そこに底知れぬ恐怖を感じた。が、読まずには居られなかった。迷った挙句購入した自分は数少ない”褒めてあげたい自分”の一人である。

 「モモ」は未読なのでこれまで膨らんだ私の想像の恐怖をお話しても仕方が無いので「救済の日」の話に戻ろう。

 主人公は一般的な男性で、妻も子供も居る幸せな家庭を築いている。…筈だった。子供の異変から、世界の異変、そして自分への異変。不安で踏み潰されそうな日常と幻覚のような現実と思える世界。そこから流れてくる世界の記憶と記録。

 受け止める物は光なのか闇なのか。

 少し政治色も強い分、あらすじを書く事がとても苦手なので難しい。が、きっとどれだけ文才を得てもきっと書けないだろう。「絵本」だと感じたのがその理由の1つかもしれない。

 読んだ後はとてもモヤモヤするようなすっきりするような、悲しくなるような頭にはてなが浮かぶような色んな感想が出ると思う。
 私はそれを望む。


 

救済の日

救済の日